2.沖縄の海面利用と漁業権
(1) 海はみんなのもの〈注:2〉

 沖縄が他府県と違った海面利用の状況がみられるというのは、事実と思う。身近に感じるのは、旧暦の3月3日に行われる「浜うり」の行事であろう。全県的に行われる様子は、まさに「海はみんなのもの」という県民感情を裏付けている。本土では、このような行為はみられず、地元の漁業者に遠慮する姿勢が一般的である。このような違いはどこからきているのか、これまでの歴史的な背景も踏まえて説明を加えてみたい。

 海面利用について、歴史上初めて統一した方針で臨んだのは琉球王朝時代のことであったと考えられる。王府が指示したものに「海中取締」といったものがあり、沖縄全体に共通した規則としては、村海といった村落の前にある海「地先海」は、村の住民が利用できること。住民といっても、土地を耕し税金を納めている農民(「地人」という)に海を使う権利を与えたということである。

 住民の中には、首里などから移り住んだヤードゥイという寄留の人もいたが、この人たちは原則としてお金を払わないと海は使えないことになっていた。

 つまり、リーフの内側の浅い海“イノー(礁池)”は、前述の農業を通じて税金を納める義務のあるものが海も使用できるという「海陸一体」の関係が基本だったのである。糸満など専業の漁業者も海叶(ウミガネー、入漁料のこと)を村に支払って漁業をするのが普通であった。村は、この収入を村内児童の奨学金にしたり、村負担の税金支払いに充てるなど全体のために使うのが一般的だったという。沖縄の特色である共同体中心のユイマール精神だったといえるようである。

尚敬王の時代にも、通達で村落の前の海は、村落のものと明確にされているから、実質的には「農民のための海」、それが沿海村落の海面利用の基本であった。琉球王朝時代は、農業中心の社会であり、税金も専ら農民から徴収していたことが、海の利用に反映していたといえよう。このような状況が本土の動きと連動するようになるのは、琉球処分以後、つまり明治時代に入ってからのことである。


(2) 漁業法の導入と漁業権〈注:3〉

 明治35年(1902)、沖縄にも本土と同じ漁業法が導入され、漁業権制度が施行された。しかし、本土とは違った状況も現場では見られた。本土では、沖縄に比べれば漁業中心の村落「漁村」も多く、漁業者中心の海面利用が見られたのは当然である。

反面、本土でも沖縄と同じ農業中心の沿海村落もあった。明治になって、そのような村では農漁民の共有する地先海面ごとに農民で組織される漁業組合を組織させ、その組合に「地先専用漁業権」を認め、法的にも登録させたのである。鹿児島の例でみても、沿海村落の数だけ漁業権がある様子が判明し、それが本土の一般的な状況であったといえよう。

 沖縄はどうなったのであろうか?県庁の役人は、漁業法の適用に当たっては相当苦労もし、考えたことが残された各種報告書からも窺える。それは、沖縄にとって新しい産業ともいうべき「漁業」を育成したかったからに他ならない。沖縄でも沿海村落単位に「地先漁業権」を設定したいとの希望はあったが、県の水産係は専業の漁業者(糸満など)に邪魔になる漁業権設置は無い方が良いと判断し、できるだけ漁業権の申請をさせないという指導をしていた事実があった。

それは漁業権があると、糸満など外部の漁業者は漁場のある各村落へ金や魚を払う義務があったからである。したがって、沖縄では農民による「半農半漁」といった漁業の実態があっても、漁業権を設定しなかったり、漁業組合も組織しない地域はかなりな数に上った。私が調査した事例でも、浦添市では小湾には漁業組合があったが、その他(仲西等)の地区には無かったのである。したがって漁業権が登録され、漁業組合があったのは小湾だけであった。

 しかし、実態としては登録されていない他地区でも王朝時代と同じで、農民を中心とする住民の利用がみられたのである。浦添唯一の小湾漁業組合には漁業者がどれだけいたのであろうか、記録によれば昭和14年(1939)現在で、組合員数7名、組合長は区長の兼任という全琉一小さい組織であったといわれる。海面利用の実態は、海を地域住民全体で利用するという沖縄の平均的な村落であったといえよう。

 この漁業法は漁業者のための法であるが、実態は江戸時代の海面利用秩序を前提に、法の形式をドイツのものにしたという和洋折衷のものであった。

 沖縄に抵抗なく入ってこれたのは、沖縄も琉球王朝時代の法律を変更する理由がなければ明治に入ってもそのまま続けるという「旧慣温存」政策が基本であった点であろう。

 現在、「海は漁業者のもの」という主張の背景には、地域によっては漁業者イコール地元住民という意識が強いことからくることのようである。それは琉球王朝時代の慣行と昭和初期にかけて展開した専用漁業権の見直しが関係していると考えられる。

つまり、見直しの方向に二つの流れ「漁場主義」と「水族主義(漁業種類主義)」があったことに理由があるといわれている。

漁場主義とは、地先の海面内では全ての漁業について地元優先とする考え方で、地元以外の漁業は禁止するというものである。

一方の水族主義は、漁具・漁法及び魚族の特徴に応じて、その漁業単位に免許をするといった漁業の自由な発達を前提に考えたものといわれている。

戦前の漁業法、それは明治になって沖縄にも導入されたものであったが、法律の内容は「水族主義」、実態は各村落が実施していた漁業内容に関係なく、全漁業に免許を受けていたので実質的には「漁場主義」であったというのである。

見直しの背景には戦争を遂行するために、兵隊を供給する農山漁村の生活を保証しなければならないという考えが基本にあったことが大きな理由であったという。

 戦前期を通じて、沿海村落と海の関係は、漁業法の導入はあっても琉球王朝時代とあまり変化は無く漁業者が海を使うという感覚よりは、地域に所属する海を地域の住民が使うという実態であったといえよう。


(3) カツオ漁業の振興と漁業権〈注:4〉

 戦前期宮古水産業の代表的な漁業としては、カツオ漁業と鰹節製造業があげられる。 鰹節は県全体としても黒糖に次ぐ重要な移出産品で、日本全体でも鹿児島・静岡に続く3番目の生産県であった。そのため県の水産施策の中心であったカツオ漁業には手厚い保護策がとられ、漁業権にもその面の配慮がみられた。

 それは戦前期沖縄の漁業取締が、カツオ漁業の餌対策という側面も強かったからである。カツオ漁業の成否が、活き餌が手に入るかどうかにかかっていたからであろう。スルルというカツオの活き餌を保護するために、従来からあった垣花(那覇)や糸満の漁業者によるスルル網漁法まで禁止した。

また、明治以降新規導入されたカツオ漁業は、その中心となったのは地域の農民で、共同出資、平等就労、平等分配といった基本原則のもと、全県的に普及し一種ブームの状態であった。沿岸の漁場は、これらカツオ漁業の餌を確保する場であり、同時に糸満などの追込網漁業の漁場でもあった。戦前期の漁業権台帳をみても、各村落の入漁条件には追込網の数を制限する条項がみられる。糸満の漁業が、後年県外、海外へと出漁する背景には、カツオ漁業が優先され県内では漁場の確保ができない事情もあったと考えられる。

 村落ごとにカツオ漁業の組合が組織され、餌の確保から鰹節まで一貫して行なわれた沖縄方式の場合、沿岸漁場が独占的に使えるかどうかは重要であり、他に開放するといった面は生じ難かったといえよう。


(4) 新漁業法の導入と沖縄

 第2次世界大戦が終わって、「民主化」の名のもとに敗戦国日本の改革路線が敷かれた。いちばん大きな改革は、「農地改革」と呼ばれた農村の民主化であろう。大地主を徹底して解体した内容は、「財閥解体」と同じ線上の日本の革命とまで考えられる。

その背後に隠れて、目立たないが水産業でも「海の民主化」と呼ばれる漁業法の改正があった。

 農地改革で大地主が追放されたように、漁村でも網元と呼ばれる支配層が排除された経過があった。戦前の沿岸の漁業権は、期間が20年と長く、期間が満了しても申請すれば簡単に更新できるなど半永久的な権利として、漁業の実態のない権利者も多かった。改革は漁場の民主化と生産力の発展を図るために、戦前の漁場利用の秩序を全部ご破算にした上で新しい漁業制度を定めるという徹底したものであった。

昭和24年(1949)、現在の漁業法(新漁業法)が公布され、戦前の漁業法に基づく権利関係が消滅、新しく漁業者の手になる漁業権が免許されることになった。権利を放棄する旧漁業権者に対して、国は補償金として総額178億円もの支出をした。当時の水産庁全体の予算額が約16億円というから、補償金の現在評価は、2千億円以上にもなる巨額なものであった。本土では、権利者単位に補償がなされ、ここに漁業者中心の新しい漁場秩序が誕生したといえる。

 沖縄にはこのような改革の波は、占領中ということもあって適用されなかった。奄美・小笠原・北方四島も同じように補償されなかった地域であった。復帰後、この件は日本政府に対して補償請求を行ったが、時間が経過して補償対象にはできず、旧漁業権補償に代わるものとして「沖縄県沿岸漁業特別振興資金」として11億5千万円の基金が造成された。

権利者への個別補償ではなく、県全体を対象にしたものであり、明確に漁業権補償ともされず性格的には、極めて曖昧さの残る解決策であったといえよう。

「海はみんなのもの」という感覚には、漁業者中心に海面利用が展開出来なかった沖縄の歴史と、戦後の本土のように清算出来なかった漁業権の存在が大きいといえよう。


(5) オバーの権利、ウミンチュー(海人)の権利〈注:6〉

 かって、白保の空港問題で社会が騒然としていた頃、石垣の漁協と白保のオバー(老女)との間に、海をめぐって議論があった。白保の海をめぐって、オバーは「海は一度も売ったことはない」と言い、白保海域の漁業権者である八重山漁協の漁業権放棄の姿勢とは全く対立していた。

 オバーは琉球王朝以来の慣行による権利を主張しているのであり、それは王府によって認められた権利でもあった。村落の前の海は村の畑の延長と考えられ、税金を王府に納める代わりに使用を認められたものであった。本土にも同じような村はあったが、前述のように明治に入ってからその権利を登録し、正式のものとなった。

沖縄では、このような村の権利が登録されず、今日に至も慣習として続けられている実態がオバーの主張ということになろう。漁業者も戦後の漁業者のための漁場利用という「漁業制度改革の恩恵」にあずかれず、オバーもこれまで使ってきた海の権利を曖昧なまま失っていく過程であったといえよう。

 漁業者や地域住民が犠牲になっている状況、つまり海面利用について正当な権利者が複数いる沖縄の実態がダイビング事件の背後にあることを考えたいのである。


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